奇跡のひと マリーとマルグリット
奇跡のひと
マリーとマルグリット
映画『奇跡のひと マリーとマルグリット』予告篇 - YouTube
観たなっしー。
奇跡の人と聞いて思い浮かぶのはヘレン・ケラーかと思いますが、こちらの作品はヘレン・ケラーの話ではありません。
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INTRODUCTION
あなたに伝えたい。
言葉の力、世界の輝き、そして生きる喜びのすべてを――。
ふたつの魂が出会い奇跡を起こした、もうひとつのヘレン・ケラー物語
聴覚障がいの少女たちが暮らす修道院に、目も耳も不自由な少女マリーがやってきた。
教育を一切受けずに育ったマリーは野生動物のように獰猛で誰にも心を開かない。
不治の病を抱え余命いくばくもない修道女マルグリットは、残された人生をかけてマリーに"世界"を与えるべく教育係となる。
困難の末ついにマリーが言葉を知る日がやってくるが、二人の別れの時間は目前に迫っていた――。
母のように惜しみなく愛を注ぎ、知識を分かち、命をつなぐ―。
迫りくる死の気配を感じながらマルグリットがマリーに与えたのは「喪う悲しみ」より多くの「生きる喜び」だった。
19世紀末、フランスポアティエ地方に実在したふたりの女性による感動のトゥルー・ストーリー。
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ヘレン・ケラーの『奇跡の人』を
観たことがある人は中盤まで
“めっちゃ奇跡の人ですやん”
って思うでしょう。
でも最後まで観るとちゃんと違いがわかるので、途中でやめずに観てほしい。
冒頭、マリー(視覚・聴覚障害そして話せない三重苦を抱えている)が父親の馬車に揺られて修道院に連れられてくるシーン。
とても緑が綺麗な並木道を来るのね。
色鮮やかな木々の隙間から陽が差して、とても綺麗な木漏れ日が映し出される。
空に向かって手を伸ばしているマリー。
一見、視覚に問題があるように思えない。
でも実はその綺麗な木漏れ日は見えていないし、馬車の音も聞こえていない。
修道院に到着して父親と少し離れた隙に突然走り出して、修道女の皆さまが作り上げた畑に突っ込んでいく。
みんなが
( Д ) ゚ ゚ ←って感じになりつつも止めようとするのだけど生まれてこの方14年もの間、しつけも教育も受けていない野生そのものなマリーを止められるはずもない。
マリーは木に登ってしまう。
そのマリーを降ろそうとしたのが修道女のマルグリット。
彼女は病気で余命いくばくもない。
そんな彼女がマリーに触れた時に、マリーの魂に触れた気がしたらしい。
けど目が見えず耳も聞こえないマリーを引き受けるのは無理だと判断した院長は父親にマリーを連れて帰らせた。
マルグリットはマリーに触れた感覚が忘れられず、院長に自分が何をどうしても教育すると志願してマリーを迎えに行く。
舗装されていない緑しかない道を目視4~5cmのヒールで大きな鞄を持ち歩いて迎えに行くってだけでも大変なのに、彼女は嬉しそう。
家に行くとマリーは机の下に隠れていた。
マルグリットが近付いて触れた瞬間、これでもかってくらいに大暴れ。
そりゃそうよね。
私も視聴覚が閉ざされている中で人に触られたら全力で暴れる自信があります!
それからなんだかんだあってマリーを連れて修道院に歩いて帰るのだけど、マルグリットはヒールで足が痛いだろうし、マリーは裸足で痛そうなのにそんな素振りしないしでなんかもうとにかく足が痛そうという感想…
なんとかして修道院に戻ってきたはいいけど、マリーにどう教育したらいいのか実はよくわかっていないマルグリット。
それでも彼女は全力でマリーにぶつかっていく。
マリーは全力で抵抗するけれど、それは14年間生きてきて『はじめてだらけ』だからだったのかな。
何ヶ月もマルグリットvsマリーの戦いは続いたのだけど、8ヶ月目にしてようやくマリーの『知りたい』の扉が開いた。
ぬいぐるみ等には興味を示さなかったマリーが唯一離さないのと母親から預かっていたナイフの名前を何度も何度も手で教えてみる。
もうダメだと諦めた時
マリーが『ナイフ』という手の動きをする。
そこから『知りたい』が爆発。
これは何?
これは?
これは?
すぐに覚えるマリーに喜ぶマルグリット。
何か一つ出来る度に『うんうん』って頷き、褒める。
マリーの知識の成長は止まることを知らず、名前や文法だけでなくローマ字ブロックを手で探って使って自分の名前の綴りも表せるようになり、およそ1年ぶりに会う両親を驚かせた。
マリーとマルグリットは魂で繋がり合っていたんでしょうね。
マルグリットの体調が悪化した時、マリーには自分の命があと少しだという事を教えたくないと言っていたけど、なんだかんだありまして結局伝えざるえなくなりまして。
でも実はマルグリットよりもマリーの方が死を迎える覚悟が出来ていたのですね。
マリーは心からマルグリットを信頼し愛した。
マルグリットも同じ。
『彼女は私の喜び。
私の魂の娘。
私の人生の光だ』
と言っていたのでね。
ラストにマリーがマルグリットへの想いをスラスラと手話で伝えるのだけど、もうなんと言いますか…
マルグリットの想いがすべてマリーにちゃんと伝わっていたのだと、愛ってちゃんと伝わるのだと思ったら少し心が温かくなったりラジバンダリ。
『あなたは私の友人以上でした』とマリーが最後に言うのがもうほんと。じわーん。
マルグリットが旅立った後もマリーは修道院に残り勉学に励んだそうです。
修道院はマルグリットが居なくても視聴覚共に障害のある子達を受け入れ、教育に勤しんだそうです。
きっとマリーの両親も14年間ただ単にしつけや教育をしなかったのではなく、どうしたらいいのかわからず時間だけが経ってしまったのよね。
時は19世紀ですよ。
どうしたらいい?って聞ける人もなかなかいなかったでしょう。
マルグリットに出会えて良かったのはマリーだけでなく、マリーの両親、そしてマリーとマルグリットが起こした奇跡を目の当たりにした修道院の皆さんに繋がることが出来た人々なんだろうなと思うと、やはり人は一人では生きていけないのだなと教えられましたね。
どこかで必ず繋がるんですよね。
嫌でも。
だって21世紀の日本に住む私がこうして映画を通じてだけどマリーとマルグリットに出会えたんですもの。
私の周りには視聴覚障害を持った方がいないのでリアリティを感じるのは少し難しい…
けど、今後生きていく上でそういう個性を持った方に触れ合う時が来たならマルグリットのように魂で触れる事が出来るかしら?
魂で触れ合うのは多分難しいけれど、なんかこう…頑張るわ。
身振り手振り、頑張るわ。
昔、手話を勉強していた事があるのだけど途中でやめたんですよね。
何これ難しい!もうやだ!って。
今も少しだけ覚えているけれど、実際に誰かに使ったら(or使われたら)テンパってわからなくなるだろうな~。
色々な人がいる世の中ですよ。
伝えたい事を伝えられる手段のひとつとして、言語のひとつとして当たり前のように使いこなせるようになれたら聴覚に障害のある方も不自由なく生活できるんだよなぁ~とか思うものの
やはり難しい。
常に紙とペンを持ち歩く?
スマホ?
バッテリーが無くなったら会話不能よ!
んー。
もう一度手話のお勉強しようかな。
なんて思った作品です。
マリーこと、マリー・ウルタンは
1885年4月13日、
フランスのヴェルトゥに生まれた。
生まれつき目も視えず、耳も聞こえず、10歳までは動物のように食べて遊ぶだけの毎日で妹や両親のことを叩いていた。
意地悪で犬のようにわめく子どもだった(本人の言葉)。
そんな彼女は医師によって精神薄弱と診断され、精神病院へ入るよう勧められるが、樽職人の父はラルネイ聖母学院での教育に望みを託す。
この学院で盲聾の少女の受け入れはマリーが3人目だったが、シスター・マルグリットが献身的に教育を続けた。
ヘレン・ケラーにサリバン先生がいたように、マリーにはマルグリット先生がいた。
この組み合わせこそがすごい奇跡なんじゃないかと見終わってここに書いている今思う。
わたくしにはそんな先生いるかしら?
あ、いたわ(´-`).。oO
高認を取りたいと言った時に手を貸してくれた先生と、実質教えてあげてと丸投げされた恩師さん(笑)
わたくしには2人もいたのだな。
うむ。
大事にしたい縁ですね。
なんてね。
ちなみにこの映画の舞台となったラルネイ聖母学院はラルネイ英知会という修道院によって1835年に創設。
もともとは聾唖の少女のための学院だったが、1857年には盲目の少女たちも受け入れるようになり、20世紀初頭には250人の寄宿生を抱える。
その後、男子も受け入れるようになり、
創立から180年を迎えた現在も盲聾の子どもたちへの教育を続けているそうですよ。
もうひとつ、ちなみに
マリーを演じたアリアーナ・リヴォアールさんもまた聴覚障害をお持ちだそうで。
この映画が初めての演技だったらしいですよ。
初めてだとは思えないほどの演技、素晴らしかった。
そしてアリアーナの人間性といいますか、考え方もとても素敵。
アリアーナのインタビュー記事を読むと彼女の人間性が少しわかる気がするかと。
[https://www.google.co.jp/amp/s/www.cinemaniera.com/
ヘレン・ケラーとサリバン先生の『奇跡の人』も、マリーとシスターマルグリットの『奇跡のひと』も両方とも色々考えさせられる作品となっているので1度観てみてほしいですな。
『奇跡の人』よりテンポも良いので見やすいかな。
でも題材が別だからやはり両方観て!!